推しに会いたいけど会いたくない

 


推しに会いたいけど会いたくない

 

アイドルに会いに行くとき、この2つがせめぎ合うことがあって。

 

 

こうなるのは、ライブではなく、接触系イベントのとき。つまり、一方的に眺めるのではなく、推しと私の間でやり取りが生まれるときに、行こうか悩んでしまう。

 

この間のNATUREのイベントでも、行くのやめようかなとか、いざハイタッチするときになってやっぱり帰ろうかなって思ったり(結局行ったし、ハイタッチもしたけど)

 

 

www.myjinsei.com

 

 

なぜそう思ってしまうのか。それは、推しとの思い出をきれいなままで残しておきたいから、かもしれない。

 

 

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ライブは推しから自分への一方向。ファンサだったりで交流はあるけど、基本的に「会う」というより「眺める」感覚。

 

ということは、自分の記憶には推しの姿しか存在していないわけで。

 

 

それに対して接触系のイベントでは、推しと自分の間でやり取りが生まれる。それによって、推しと自分の両方が登場する記憶になってしまう。

 

それが楽しい思い出だったらいいけど、「失敗したな」「もっとうまく話せたかも」と思うときもあるし。

 

 

そうすると、推しのことを思い出すたびに、その嫌な記憶まで蘇ってしまう。私はこれを恐れて、アイドルに会いなくないと思っているのかも。

 

我ながらすごい繊細な人間だなあとあきれますが、思ってしまうものはしょうがない。回数を重ねたら変わるのかな~

 

 

でも、こんなに敏感になってしまうのには理由がある。私にとってアイドルはただの娯楽じゃなくて、すごく大切なもの。自分が安らげる場所みたいな感覚があるから。

 

だからこそ、きれいな思い出にしておきたい気持ちが強いのかもしれない。

 

 

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だから、アイドルに会わないようにしよう…というオチではなくて。むしろこれからは推しに会いに行きたいと思っています。

 


そう考えたのは、NATUREのイベントに行く途中で読んだ『結局、人は顔がすべて』という本の影響。

 

 

結局、人は顔がすべて (朝日新書)

結局、人は顔がすべて (朝日新書)

  • 作者:竹内一郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2016/12/13
  • メディア: 新書
 

 

 

この本のなかにある、

 

「生き方の変化が確実に見た目に現れていることは確かだ」

 

という言葉。

 

つまり、自分がどう生きているかは顔に現れている、という意味。読み進めていくと、納得するようなことも多かったです。

 


そして、イベントからの帰り道にふと思ったのが、「挑戦してこなかった顔」よりは「挑戦してきた顔」になりたいな、ということ。

 

今回の場合でいえば、「推しに会ってこなかった顔」よりも「勇気を出して推しと会ってきた顔」になりたい(それってどんな顔?って感じですが)

 


それに、実際に見て触れ合わなきゃ感じられないことってあるし。そういうものを、今より少しだけ大切にしていきたい。

 


そんなことを感じた日。